オリックスの“ミラクル男”が新天地で燃えている。近鉄時代に代打逆転サヨナラ満塁優勝決定本塁打を放ったことで知られる北川博敏氏(42)が、昨年11月に二軍打撃コーチからスーツ組に転身。事業本部企画事業部プロジェクトマネジャー(PM)の肩書となり、球団の“広告塔”としてチームをアピールする立場となった。まだユニホーム脱ぎたてとあって名刺交換も不慣れながら、さらなるファン拡大に向け“ぺーさん”が決意を語った。

 18年間の現役生活を終え、2013年から二軍打撃コーチとして若手育成に尽力した。それが昨年11月、指導者としてこれから、という時にまさかの辞令。ユニホームを脱ぐことへの戸惑いは隠せなかった。


 北川PM:最初は受け入れにくかった。コーチを2年やって、いろんな流れが分かってきていたころ。最初はクビだと思った。球団にチームをこういう形で助けてほしいと言われたけど、素直にOKとは言えなかった。今まで若い選手とやってきてやり残したこともあった。いろんな恩師に相談に乗ってもらった中で梨田さん(昌孝=元近鉄監督、評論家)に「会社に残ってやれるんだから、勉強のつもりで一回外から野球を見るのもいい。いずれユニホームを着るチャンスはある」と言われました。一番踏ん切りがついた言葉でした。

 現役時代から明るいキャラクターと人柄でファンに愛され、01年9月26日のミラクル弾でその名は全国にとどろいた。球界内外で人望も厚く、球団としてみれば、さらなるファン拡大のため、どうしても必要な人材だった。森川広報部長は「知名度もあるし、関西出身で顔も広い。天真らんまんなキャラですし、ファンとの関係をより強くしていく上で持ち味が効果をもたらしてくれるはず。起死回生の満塁弾をこの分野でも打ってほしい」と起用の理由を説明し、大きな期待を寄せる。


 北川PM:球団の力になれるかどうかはまだ分からないけど、勝つためにできることはユニホームを着ることだけではない。ファンがまだ少ないし、選手には大勢の中で野球をできる喜びを感じてほしいと思う。お客さん集めに貢献したい。でもスーツを着て名刺を渡す“動作”は初めてなので、渡し方の作法を知り合いに聞いたりして…。恥ずかしさもあってまだ慣れないですよ。向こうに「えっ」ていう顔されますし。僕って気づいてくれると楽ですけどね。


 球団イベントのMC、中継の解説、メディア出演での告知、営業…。その役割は多岐にわたり、ニックネームの「ぺーさん」を前面に出してフル回転していく覚悟だ。今後はあらゆる場所での“しゃべくり”が大きな仕事になってくるが、意外にも?本人は不安があるという。


 北川PM:話が上手そうってよく言われますけど、MCなんてドキドキですよ。先輩、後輩、コーチと選手という今までの立場とは違う。立ててあげなきゃいけないし、タメ口で言っていいのかどうかとか…。僕が今まで聞かれて嫌だったようなことは聞きたくないし、かといって普通の話じゃ面白くないし。僕だから言えることがあればいいですね。マイクを持つとプレッシャーがあって思った以上に難しい。試合解説もやったことはありますけど、今までは音声まであまり聞いていなかったので…。


 お笑いタレントと親しいのもファン獲得において大きな強み。ハイヒール・モモコ、たむらけんじ、岡田圭右、かみじょうたけしらと交流があり、自らもNGK(なんばグランド花月)の舞台に立ったことも。昨年はチームが大躍進したにもかかわらず、思いのほか“オリックス芸人”がメディアに出現しなかっただけにそこでも“手腕”を発揮できるはずだ。


 北川PM:その人たちの番組に出さしてもらえたらいい。どんどんネットワークを使ってアピールしていきたい。ただ岡田さんは本当のオリックスファンなんで選手と近くなるのを控えているんです。ファンとして厳しいことも言いたいからって。


 朝の情報番組に出演して試合の告知、野球教室での指導、さらには京セラドームで客の“お出迎え”まで考えている北川PM。将来的にまたユニホームを着たい思いを残しつつ、今はファン拡大に全力を尽くす決意。では今年のチームの一番のPRポイントは?


 北川PM:はっきり言って関西では人気で阪神に勝とうというのは無理だと思う。勝とうじゃなくてオリックスの魅力を伝えていきたい。オリックスには実力者がすごくいて、その中で生え抜き選手も伸びてきている。優勝が狙えるチーム。阪神は補強も失敗したし、今年に関しては阪神より上。他も侮ったらダメだけど、完全に狙える。喜びを分かち合える、というのはアピールポイントとして出せます。

 ☆きたがわ・ひろとし…1972年5月27日、兵庫県伊丹市出身。埼玉・大宮東で甲子園出場、日本大学を経て94年のドラフト会議で阪神から2位指名を受け、入団。2000年オフに近鉄にトレードされ、01年9月26日のオリックス戦で代打逆転サヨナラ満塁優勝決定本塁打を放った。04年オフに球界再編の分配ドラフトでオリックス入り。主軸として活躍したが、アキレス腱断裂など度重なるケガにも悩まされ、12年オフに引退。13年から二軍打撃コーチに就任。14年オフに事業本部に移り、球団の“顔役”としてファンサービスに従事する。