【越智正典 ネット裏】巨人3連勝、西鉄3連敗。10月15日、平和台球場で開催予定の昭和33年の日本シリーズ第4戦の朝、福岡地方は明け方の雨が降りやまなかった。コミッショナーは、筑豊をはじめ周辺各地のファンが朝はやく繰り出すのを考慮して雨天中止。順延を決めた。雨はひる前にあがり、平和台球場の上空は青空になった。両チームにとって天運だったのだろうか。西鉄は稲尾が休めた。西鉄ナインも心機一転。

 10月16日、第4戦。西鉄6対4。稲尾は1回に2点、2回に1点と打ち込まれたが、3回から立ち直って完投した。

 10月17日、第5戦。西鉄は先発西村貞朗が立ち上がりに打たれてあっという間に3点を失ったが7回、中西太が2ランを放って追い上げる。
「三塁を回るとき、コーチスボックスの三原監督の目に涙が浮かんどりました。この、涙の三原監督をわたしは師と仰いどります。この人のためにまた打たにゃあーいかんと思っとります」

 戦いは三原語録からコトバを借りると、壮烈な「鍔迫り合い」である。

 3対3で延長戦に入った。10回表、巨人監督水原茂は打席の藤田元司をノーボール2ストライクから退け、代打に国松彰を送った。昔ふうに言うとツーナッシングからである。勝負であるが、国松は三振。

 10回裏、巨人のマウンドは大友工。大友は31年、後楽園球場での巨人阪神戦で阪神の大崎三男の剛球を右親指に受けて骨折退場するときに「ケガをした自分が許せん!」。ユニホームを脱いでからサラリーマンになったが(花島電線)、勤めの帰りには少し遠回りをして東横線都立大学の坂の上の王貞治の家の前まで歩き、世界の王の顔を一目見たいとやって来たファンが飲んで捨てたジュースの空き缶をひろい集め、キレイに片付けをして自宅へ帰って行った。もちろん、王には会わない。そういう男である。

 大友は代打田辺義三(桐生高校、捕手)をセカンドゴロに討ち取った。

 西鉄ベンチには戦局を打開する代打代走はもういない。田辺が最後である。三原の総動員もすさまじかった。

 一死。打順は8番投手稲尾和久。第1球、外角スライダーでストライク。第2球は内角シュート。稲尾はヤマを張っていたので腰の開きが少しはやかった。かえってこれがよかったのかも知れなかった。打球は低い雲を突き抜けるように左翼へ。外野審判津田四郎が走る。津田は巨人軍結団時の内野手である。左翼席のお客さんは総立ち。津田の姿がちいさくなった。審判の基本の「ラン、ストップ、ルック、ジャッジ」に入っている。津田が右腕をぐるぐると回した。サヨナラホームラン。稲尾を迎えに西鉄ベンチからナインが飛び出し、だれもが本塁ベースを指差し「サイ(稲尾のニックネーム)! ここだよ、ここだよ」

 すぐれた劇作家でも書けないような勝利の名セリフであった。日本シリーズの舞台は後楽園球場に戻る。 =敬称略=