「大船渡旋風」その後 自分の野球哲学を変えたのはあの震災でした

2019年03月09日 11時00分

現在は県庁職員として業務にあたる吉田亨

【気になるあの人を追跡調査!野球探偵の備忘録(82)】1984年春のセンバツ、初出場ながら4強進出の快挙を成し遂げた大船渡(岩手)の躍進は「大船渡旋風」として今も高校野球ファンに語り継がれている。主将兼捕手として4強に貢献、その後監督として母校を率いた吉田亨が、熱狂への戸惑いと指導者人生での葛藤、野球の現場を離れた今の思いを語った。

「みんながみんな、どこかで自分がスターだと錯覚していた。気づけばチームから個の集団になっていてね。夏に負けたときは正直ホッとしました。本能的に、あれ以上は続けられなかった」

 メンバーのほとんどが地元・大船渡一中の出身で、中学時代は全国大会に出場。エース左腕・金野正志の「俺は残る」の一声で地元大船渡に集った面々は徐々に頭角を現し、3年春、春夏通じての初出場をつかむ。迎えた甲子園では大方の下馬評を覆し、快進撃で4強に進出。準決勝の岩倉戦では1―1の9回裏にサヨナラ弾を浴び聖地を去ったが、ナインを迎える地元の熱狂はすさまじいものがあった。

「新幹線のホームが端から端まで女子高生で、ジャニーズでも乗ってるのかと思ったくらい。いくら平静を保とうと思っても、高校生には無理ですよ。どうしても浮足立ってしまった」

 夏も甲子園の土を踏んだが、初戦敗退。卒業後、吉田は小学校教員を目指して筑波大に進学したが、国公立大初の日本一に輝いた翌年、主将を任されたことをきっかけに、高校野球への思いが再燃する。

「監督とぶつかって選手主体でチームづくりをしたんですが、日本一のときの投手が2人も残っていながら結果は惨敗。それで終われないんですよね、野球を。見返したいと高校野球に戻ってきたけど、今思えばあまりにも身勝手な理由。自分の承認欲求を生徒に押し付けてね。教育者ではなかった」

 県内の高校で監督を歴任し、2004年に母校大船渡へ。大船渡旋風の立役者に地元は沸いたが、当事者だった吉田にとって「地域に感動を与える」ことには複雑な思いもあったという。

「高校野球が美化されすぎていて、それに対する反発があった。自分が勝ちたいから野球をするのであって『誰かのために』というのはおこがましいとね。選手にも事あるごとに『お前らは感動を与えるために野球をやってるんじゃない、自分のためにやってるんだ』と言っていて、ちょっと変わった監督だったと思う」

 考えが変わったのは、東日本大震災がきっかけだ。10人以上の部員の家が流され、2人が親を失った。当然、まともに野球ができるような状態ではなかった。

「もう野球はできない、そんなことをしている場合じゃないというときに、地元の方から『あんたらボランティアなんかやらんでええ。野球をやってくれ。それが見たいんだ』と言われて。自分の哲学を曲げざるを得なかった。選手にも『この1年間は地域のためにやってくれ』と頭を下げてね。批判も覚悟の上で、高野連にもいち早く参加表明を出したんです」

 被害の大きかった沿岸部の高校で唯一の8強進出。きれい事ではなく、被災地に確かな希望を与えた。2013年には高校野球の現場を離れ、岩手国体の強化委員に。現在は県庁スポーツ振興課で地元経済活性化のため、スポーツ活動誘致に取り組む。今は地域への感謝と復興への思いが原動力だ。

「いろいろな理由があったけど、経済活動に関わる以上教育とは離れなければいけない。もう一度高校野球をという思いは年を追うごとにうせてきています。またあの中に入っていくのは…ちょっと勇気がいりますね」

 熱狂に翻弄された高校時代、指導者としての後悔、震災で芽生えた葛藤。大船渡旋風から35年、震災から8年の春を迎えた今もまた、様々な思いを抱えたまま、吉田はがむしゃらに走り続けている。

 よしだ・とおる 1966年10月5日生まれ、岩手県大船渡市出身。猪川小2年のとき、同校のクラブで野球を始める。大船渡一中では全国大会に出場。大船渡では3年春夏と甲子園に出場し、春は4強。筑波大3年時の明治神宮大会で日本一、ベストナイン。大学卒業後、不来方、岩泉、一関工を経て、2004年に母校大船渡の監督に。13年から県教委スポーツ健康課で国体強化委員を務め、17年からは県庁スポーツ振興課で業務にあたる。177センチ、75キロ。右投げ右打ち。