巨人軍在団45年 小松敏宏が見た巨人のV9

2019年03月10日 11時00分

スコアラーとして試合を見守る小松氏(1986年5月)

【越智正典 ネット裏】小松敏宏。巨人軍在団45年――。現役投手二軍一軍5年、それから先乗りスコアラー、チーム付きスコアラー、二軍査定担当…。彼は先乗りスコアラーになり、阪神を調査する甲子園球場に行くときに梅田から始発の阪神電車に乗り、空席があっても決して座らなかった。立っていた。

「タイガースを見に行くお客さんの席なんだ」。それは誠実な彼の人柄そのものだったが、巨人V9の所以でもあったし、また、この4年連続勝てない巨人再建への教訓だともいえる。

 左投手が多かった1957年のセンバツは、決勝で早実の2年生左腕、王貞治と高知商の左腕、小松が対戦し、投げ合い、王が優勝投手になった。誕生日前だったので王は16歳だった。

 小松は大会前、風邪で高熱、確か前田病院だったが入院していた。しかし出発の日が来ると、病室を抜け出し、高知港に駆けつけ、みんなに挨拶、関西汽船に乗船した。心配した母親が無事を祈って学校に願い出た。「大会中は名前を『俊広』にして下さい」

 58年巨人に入団。契約金200万円。ファンにははなやかに映る巨人もこのときは、まだ給料は15日と月末の2回に分けて支給していた。彼は月に2回仕送りをした。特訓の“ふるさと”になる、多摩川グラウンド開場から3年目。巨人軍寮があるむこう岸まで渡し舟があって30円だった。

「巨人はON時代ではありましたが、川上監督で勝ったのです。大監督です。先乗りになったとき、いいデータを送れ、しっかり頼むぞ…などとはいいませんでした。まるで監督自身に向かっていうように“巨人軍がプロ野球球場に行くんだなあー”。品格、立ち振る舞い、王者らしく、巨人軍らしくあれ…。そういう言葉ではありませんが、そう諭して下さったのです」

 試合が終わり、宿に帰ると小松は3通報告書を書いた。投打の対戦を詳述した選手用。ここというときの相手チームの守備陣形。コーチ用。そして川上監督あてに、次に対戦する相手チームの選手のなかでだれが気力があるか。書き終えると、もう朝になっているのも珍しくなかった。

「いまの巨人にはびっくりします。打撃練習のときにヘルメットをかぶっていないコーチ、選手がいるんです。“まっこと、いかんちゃー”です。自分を守るためではありません。勝つためです。その日出られなくなる選手が出ると総動員が出来ません」

 そういえば61年対大洋13回戦に勝ったのは控え捕手、佐々木勲(下関商、明治大)の右翼線に落ちたポテンヒットだった。白い粉がパッと散った。「全力疾走も勝つためです。1本の内野安打で1対0で勝つかも知れないからです」

「川上監督はよく口ずさんでいました。教えられました。一人ひとりが巨人軍そのものであれ、と。“思い出すよじゃ、惚れよが浅い 思い出さずに忘れずに”――」 =敬称略=