明治大学の島岡吉郎への辞令 「副」で改行の意味とは

2019年02月02日 16時30分

明大の島岡吉郎監督(1980年6月)

越智正典 ネット裏】明治高校監督になった島岡吉郎は3度甲子園に行っているが、やがて東京都高野連副会長に推される。昭和49年東京の加盟校が175校になると東東京、西東京、分区に燃えるようであった。

 昭和25年夏、甲子園に最初に行った投手大崎三男(明大、28年阪神)は会うと、楽しそうに「御大の佐久間町の家に新橋の闇市から進駐軍の兵隊がボールを売りに来ました。御大は片っぱしから買い込みました。むこうのボールは日本のボールより、少し大きく重いでしょ。東京大会が始まると握りやすいの、軽いの、それで甲子園に行けました」(決勝7対0早実)。

 前回話した長野放送の塚本勝司が送ってくれたアルバムにもうひとつ史料があった。辞令である。

「     島岡吉郎
  明治大学野球部副
監督を命ずる
昭和二十六年二月八日
      明治大学」 

 辞令は「副」で改行されている。監督含みだったのだろうが、内外への配慮だったと思える(昭和27年4月1日付で監督)。明大に凄い人物がいるにちがいない。

 島岡は昭和5年商学部、熱血の応援団に。その春、六大学リーグ戦が始まると、全学生が口笛で校歌。が、平和なときは続かなかった。程なく各校応援団員は、気力あり、体力あり、軍によって大陸に派遣された。“政務参謀”。終戦になっても帰って来なかった。一説によると島岡の場合は戦中、よくしてくれた…と感謝の中国人がジャンクを仕立てて送り出してくれたという。御大が話してくれた。お気に入りの焼きとりの店の入口から二席目のカウンター。

「明大の戦後再建を託された専務理事双川喜一博士に呼ばれたんです。『スタンドから下へ(グラウンド)飛び降りろ』」

 双川博士は大横綱双葉山定次の名付け親である。双葉山は69連勝。安芸ノ海の外掛けに敗れると「われいまだ木鶏たり得ず(不動)」。有名な話である。この不世出の大横綱は報恩、明大相撲部の師範を務める。

 島岡は最上級生にトイレ清掃。卒業する選手の就職が決まると、銀行配属なら配属支店を訪ね、店長、代理、次長に丁寧に挨拶。それから選手のすぐ上の主任に一礼、二礼。提げて行った赤坂の虎屋の重い羊羹を、皆さんでどうぞ。銀行じゅうを泣かせた…。

 卒業生が結婚の相談に来ると「挙式は11月11日にせい。日本一の『1』が四つもある」。プロへ行ったOBが来ると「おう! 着替えて練習していけ」「プロアマの規則がありまして…」「それはわしも知っとる。が、アマがプロに教えてはいけないという規則はない!」。六大学優勝総監督を含めて15回。全日本選手権優勝5回。日米大学野球優勝2回。人間力の結実である。神宮球場を沸かせた。平成3年殿堂入り。愛唱歌は「鳩ポッポ」(千葉県立成東高捕手、昭和32年入学、鈴木行雄氏)。 =敬称略=