【気になるあの人を追跡調査!!野球探偵の備忘録(78)】大阪桐蔭2度目の春夏連覇で幕を閉じた昨夏の甲子園。7年前、3季連続で決勝に進みながら、その大阪桐蔭に春夏連続で栄冠を阻まれた学校がある。光星学院(現八戸学院光星)で春夏通算8度の甲子園出場、現在は明秀日立(茨城)で指揮を執る鬼の名将・金沢成奉監督に、シルバーコレクターの葛藤と野球留学のあり方を尋ねた。

「集大成という言葉はその通りだけど、監督じゃなかったという悔しさもある。自分が監督だったら優勝できたんじゃ…とも、監督だったら果たしてここまで来れたのかとも。優勝で終わらなかったぶん、複雑な思いがある。そういうものを感じながら今もやっていますよ」

 東北勢悲願の紫紺、そして深紅の大優勝旗を目前で逃した3大会、金沢はベンチに入ってはいなかった。金沢を慕って集まったその代が入学する直前の3月、学校側との対立などもあり退任。「その代が引退するまでは」と総監督の立場で過ごした最後の3年間だった。現阪神の北條、現ロッテの田村を擁したその代も、現阪神・藤浪を擁する大阪桐蔭の前に敗れた。

「真の勝ちってなんなのかと考えるようになった。勝利至上主義でいいのかとね。あのときの光星学院は強かったけど、万人から称賛されるチームではなかったですから。甲子園全体が敵だと、そういうふうに思われないようなチームづくりをしていかないと」

 最後の代を見送り、光星学院を去った後は、明秀日立に赴任。環境面でも精神面でも劣るチームに競争意識を植え付けようと、光星学院同様、県外選手の獲得を始めた。賛否両論ある野球留学だが、金沢には確固たる信念があるという。

「いろんな地域の子たちが集まって同じ釜の飯を食うことには大きな意義があると思うんです。最初はやっぱり出身地でグループができるが、半年後には交じり合ってチームになる。もちろん真の目的はそんなきれい事じゃなく、甲子園に出て勝つこと。県内の子だけでそれができれば一番いいが、現実はそんなに甘くないんです」

 では、現実はどうだったのか。「県内でいい子はみんな常総学院に行ってしまって、そこで試合に出てるかというとそうではない。そういう状況を変えないといけないなかで、徐々にうちに来る子も増えて、やっと常総学院の牙城が崩れてきた。いずれはオール県内、オール日立でやるのが理想ですが、今はそのための第一段階。賛否の否の部分は甘んじて受け入れています」

 慣れない環境での地道な指導が実を結び、昨春センバツで就任後初めて甲子園に出場。3回戦でくしくもまた大阪桐蔭に敗れたが、茨城県北から30年ぶりに聖地での白星を挙げた。

「3年後が本当の意味での勝負。これまで北條、田村の代が私の集大成でしたが、3年後にはあの代にも負けないようなチームをつくれる手応えがあるんです。それがダメだったら? そのときはいよいよクビですかね(笑い)」

 絶対王者を相手に3度目の苦杯をなめた日々から7年。あのときの答えは今、青森から遠く離れた茨城の地で見つかりつつある。 

 ☆かなざわ・せいほう=1966年11月13日生まれ、大阪府吹田市出身。小学校4年のとき、ソフトボールを始める。吹田第三中では軟式野球部に所属。太成高卒業後、東北福祉大では2年から学生コーチに。3学年後輩に金本知憲らがいる。会社員を経て95年、光星学院の監督に就任。春夏通算8回甲子園に出場し、4強1回、8強2回。教え子に坂本勇(巨人)、北條(阪神)、田村(ロッテ)ら。2012年からは明秀日立に赴任、18年春に甲子園出場。171センチ、83キロ。右投げ右打ち。