巨人解任後すぐ東映監督に就任した水原茂の胸中は…

2018年12月01日 11時00分

東映の水原茂監督(手前右=1961年)

【越智正典「ネット裏」】1960年10月19日、巨人は第2期黄金時代の監督、水原茂を解任した。セでは勝ったが56年から長嶋茂雄入団の58年、日本シリーズで“宿命のライバル”三原脩の西鉄ライオンズに3連敗。後楽園球場の第7戦、中西太の右中間への先制3ランに敗れると“不動の4番”川上哲治が引退を表明した。

「皆様に長い間、可愛がって頂いた、背番号『16』が汚れないうちにお返ししたい」。首位打者5度。59年、南海に敗れる。藤田元司が肩を痛めていた。打倒巨人の宿願を果たした“悲運の名将”鶴岡一人らは御堂筋をパレード。

 60年、チームは暗かった。新人堀本律雄(立教大、日本通運)が公式戦過半数の69試合に登板、29勝18敗、新人王、沢村賞を受賞するのだが前半を終わったとき、彼の足ははれあがりスパイクをはけないほどであった。だれもが投打の弱体化を感得していた。

 華麗な勝負師水原は試合に敗れると川上、千葉茂ら強者たちに決まって「胸を張って引き揚げろ!」

 57年春のセンバツ決勝で、早実の2年生王貞治と投げ合った準優勝校高知商業の左腕、小松敏宏(俊広)は「水原監督にはマナーが大切なのを教わりました」と、いまでもいうが、巨人の関西遠征の宿、竹園旅館(ホテル竹園芦屋)の離れの桜の間に水原が入ったあと、庭下駄が乱れていることはなかった。

 水原は本拠地後楽園での試合が終わると、苦渋を流し、背広にネクタイ、シャれたハットをかぶって銀座のなじみのおでんの店へ。ネオンが夜空の花束のような街を少し歩いた。花売り娘が近づいてくると必ず買っていた。秋、焼き栗の店が出ていると、水原には勝ち栗になる。買い求めてポケットに納めた。

 61年正月、銀座のセの事務所で用事をすませてそとに出ると、夕暮れだった。窓が大きな店の前を通ると、水原と、水原の高松商の後輩、関西ファームの始祖、阪急監督、東映ヘッドの西村正夫が食事をしていた。水原に呼ばれた。長男信太郎と仲がよかったので呼んで頂いたのであろう。親である。心にしみた。

 話をしてくれた。

「(巨人監督を解任されるとすぐに)東映フライヤーズのオーナー大川(博)さんが、じきじき監督に…と家まで来て下さった。おことわりしたら人間として非礼になる。で、お受けした」。飾られていたぼんぼりが、はや春を告げていた。

 2月1日、東映ナインは静岡県伊東、伊東球場にキャンプイン。毒島章一、土橋正幸ら選手たちがランニングを始めると、水原はグラウンドならしのトンボを握りしめて丁寧に土をならしていた。水原は正月に、正力松太郎には新年の挨拶をしたかったが、逗子の正力邸の玄関までしか入れなかった。もう心残りはない。

 監督就任と同時に兼ヘッドスカウトの川上には勿論、寧日なかった。ベロビーチも行く。川上の背中を押したのは60年11月19日、着任の新代表、佐々木敦美(あつみ)であった。=敬称略=(スポーツジャーナリスト)