【異業種で輝く元プロ野球選手】「自分みたいな人間でもプロ野球選手になれた。誰でもチャンスはある。だからこそ自分の経験を伝えていきたいのです」

 自らの野球塾が開催されているバッティングセンター内でこう話すのは近鉄、阪神などで活躍した平下晃司さん(40)。現在、関西を中心に複数の野球教室で小、中学生に指導を行っている。

「ここ以外に平日は東大阪と堺で指導しています。土日はクラブチームの監督もやっていて、月に1回は富山でも野球塾を開催しています。毎日どこかで野球を教えているので休日はない。家族からは『野球ばっかり』とあきれられてますけどね」

 苦笑いを浮かべながらこう話す表情には充実感が漂う。

 1995年に日南学園高からドラフト5位で近鉄に入団。俊足巧打の外野手として期待されたが、13年間の現役生活では計3度の交換トレードを経験。4球団を渡り歩き、様々な指導者の下でプレーした。そんな経緯もあり「引退後はプロで学んだことを生かしたい」と指導者の道へ。2011年に「平下晃司ベースボールアカデミー」を開校以来、7年間で指導拠点を増やしながら数百人の教え子を送り出している。

 明けても暮れても野球指導。40歳になる元プロ戦士が今も子供たちに情熱を注ぐ背景には育ててくれた恩師への「恩返し」もある。

 実は平下さん、中学時代は地元でも有名な不良だった。特に宮崎・吾田中に入学した直後は野球部に所属も「遊びの方が楽しくて」(平下さん)と練習をさぼり、不良仲間とつるむ日々が続いた。一歩間違えれば堕落の人生を送る可能性もあった。そんな平下さんを救ったのは中学、高校で出会った恩師だった。

「一人が有田先生っていう中学の野球部の先生で。僕みたいな人間を見捨てず、ずっと目をかけてくれた。野球をやるたびに『いいもの持ってる。頑張れ』って応援し続けてくれたのです。もう一人は日南学園高の野球部顧問・小川茂仁監督。小川さんは厳しさの中にも選手一人ひとりに愛情を注いでくれた。当時、足だけが速かった僕が甲子園に出場してプロに行けたのも、自分の能力を最後まで信じて指導してくれたおかげです。2人に出会わなければプロ野球選手になるどころか道を外していたはず。その思いがあるので今度は自分が教える番なんじゃないかと思っているんです」

 指導者の接し方によって子供の運命は変わる。平下さん自身が実体験したからこそ恩師の教訓を忘れない。

「育ってきた環境や実力は小中学生レベルではあまり関係ない。体が小さく非力という理由で2番打者を念頭にバントや小技を磨かせる指導者もいますが、僕はそういうことはしません。高校生になって急に体が大きくなり4番を打てるようになる子も大勢いるからです。子供の可能性は無限なので、自分の野球教室では打撃ならフルスイングが基本。ボールを当てにいくような指導はしません。同時に、実力に関係なくどんな子に対しても同じ目線で接する。僕自身がそう指導され成長しましたからね」。野球のおかげで今がある。引退後の人生は後進にささげる覚悟を決めている。

 ☆ひらした・こうじ 1978年、宮崎県生まれ。日南学園高から95年ドラフト5位で近鉄入団。2000年一軍初出場も同年オフにトレードで阪神移籍。04年にロッテ、07年にもオリックスへトレード移籍。08年に戦力外通告。09年関西独立リーグ「大阪ゴールドビリケーンズ」に選手兼任コーチとして入団。10年に現役引退後、11年に「平下晃司ベースボールアカデミー」を開校。一時は飲食店経営も現在は指導に専念。東大阪市にある「ブリスフィールド スポーツアカデミー」や堺市でも野球指導に携わる。プロ通算成績は319試合で打率2割4分4厘、12本塁打、64打点。身長177センチ。右投げ左打ち。