【平成球界裏面史 近鉄編24】平成21年(2009年)に2度目のFA権を取得し中日から楽天へ移籍した中村紀洋。04年に近鉄が消滅してからドジャース、オリックス、中日と続いて所属5球団目は東北楽天ゴールデンイーグルスに決まった。

ボールがバットに当たったと抗議する野村監督(2009年4月)
ボールがバットに当たったと抗議する野村監督(2009年4月)

 近鉄が消滅した結果、生まれてきた楽天球団。選手やスタッフには元近鉄の面々も存在し、完全アウェーの雰囲気ではなかった。チームとしてはこれから上を目指そうという若い集団とあって、ベテランとしてのリーダーシップも求められていた。

 チームには近鉄時代、一緒に戦った同い年の礒部公一も在籍した。01年の近鉄リーグ優勝、球界再編騒動も経験した仲間だ。かつては猛牛打線の4、5番を務めた強打のコンビが再結成したわけだが、両選手ともに本番では振るわなかった。

キャンプで集合写真を撮る楽天(2009年2月)
キャンプで集合写真を撮る楽天(2009年2月)

 開幕を中村は「5番・三塁」、礒部は「7番・右翼」で迎えた。ただ、年間を通して波に乗れなかった。礒部は4月下旬に登録抹消されそのままファーム暮らし。中村も8月前半に抹消されたままシーズンを終えた。 

 皮肉なことに、中村が離脱した8月から楽天は盛り返し快進撃を続けた。8月以降だけで17の貯金を重ね、ソフトバンクを抜いて2位に浮上。球団史上初のCS出場を果たすことになった。

 CS第1ステージでは岩隈久志、田中将大の2大エースでソフトバンクを撃破。CS第2ステージで日本ハムに敗れはしたが、04年の球界再編騒動で生まれた合併球団が堂々のAクラスに入った。その裏で球界再編問題を経て初代ミスターイーグルスとした活躍した礒部は、シーズン限りで引退を決めた。

引退セレモニーで涙を流す礒部(2009年11月)
引退セレモニーで涙を流す礒部(2009年11月)

 CS敗退を受けて楽天を退団となった野村克也監督から「ノリは誤算だった。もう少しは打つと思ったんだけどな」とボヤかれたのも無理はない。ただ、楽天時代の中村は腰痛に右太ももの肉離れなど、満身創痍の状態だった。

 ブラウン監督に代わった翌10年、中村は序盤こそ好調をキープした。だが、徐々に成績を落とし129試合、打率2割6分6厘、13本塁打、64打点の成績。2年ぶりに規定打席に到達したが、10月1日に戦力外通告を受けた。

アップで苦しそうな表情を見せる中村紀洋(2009年2月)
アップで苦しそうな表情を見せる中村紀洋(2009年2月)

「精一杯やったつもりだったけど、ケガもあって、仙台での2年間は結果を残せなかった。東北のファンの皆さんはすごく熱心に応援してくれたのに期待に応えられなくて悔しかった」

 中村は12球団合同トライアウトには参加しなかった。言葉にするのは難しいが、球界をけん引してきた自負があった。

「トライアウトというのは、まだプロでプレーできるか試されて、選ばれる場だと思う。NPBでプレーできる実力があるかないかで言えば、それは俺自身の口から言うことじゃないけど、想像に任せる。だから俺は準備をしてオファーを待つだけだよ」

 大阪、兵庫の施設を使い、自主練習を行いながら他球団からのオファーを信じて待った。ここから数か月、本当に待つのみという苦しい期間を過ごすことになった。