【平成球界裏面史 イチロー編③】平成6年(1994年)に振り子打法で210安打の日本記録を更新し、打率3割8分5厘で首位打者を獲得したイチローは、一気に国民的なスター選手へと駆け上がった。「51」のグッズが飛ぶように売れ、テレビ番組やハウス食品、日産自動車などCMにも登場。ユニホームを脱ぐと〝ヒップホップ〟ファッションを着こなし、まったく新しいスタイルの選手となった。

ファンに囲まれサインに応じるイチロー(1998年)
ファンに囲まれサインに応じるイチロー(1998年)

 球場には若い女性ファンが急増。〝イチローフィーバー〟に球団は大いに潤ったが、人気の過熱で心配も出てきた。遠征や宿舎にファンが押しかけ、移動の際に危険な状況になりかねない。球団はイチローにマネジャー的な役割の専属広報をつけ、行動を管理した。チーム全員そろっての移動も新幹線ホームなどでの混乱防止の観点から別行動。別便、別ルートで動き、宿舎でも正面からの出入りは避けた。

 飛行機移動の際、多くの選手がエコノミーだったにもかかわらず、イチローだけVIPルームで待機し、幹部に並んでビジネスクラスが用意されたこともあった。優勝旅行では1人だけ別のホテルに滞在した。専属広報が常に空港会社、JR、ホテル側と事前に打ち合わせし、ファンと接しないような動線を作る。これらは安全面だけでなく、写真週刊誌からイチローを守る意図もあり、各方面に神経をとがらせた。

辰吉丈一郎(右)の試合後に握手するイチロー(1997年)
辰吉丈一郎(右)の試合後に握手するイチロー(1997年)

 とはいえ、まだプロ4~5年目の若手。周りから「なんであいつだけ…」「あいつは重役か」と〝特別扱い〟にクビをかしげる声も噴出し、イチロー自身が「壁」を作る傾向にもなった。試合後は球場の室内練習場で打ち込みをし、食事をして合宿所に帰っても室内で深夜の打ち込み…。年々厳しくなる相手バッテリーのマークのさらに上をいき、成績を残さないといけない。重圧を抱える一方で、ロッカーにいけばチーム内外から頼まれた色紙が山積みされ、あまりの多さにサインを簡略化させたほど。人気者の現実から逃れることはできなかった。

練習中に汗をぬぐうイチロー(1994年)
練習中に汗をぬぐうイチロー(1994年)

 チームの絶対的中心でありながら〝孤立〟していく。いつしかイチローは帽子を目深にかぶり、ヘッドホンをつけて移動することが当たり前のようになる。マスコミを〝遮断〟するのに好都合だったかもしれないが、チームの移動バスの中でも外そうとしない。それを誰もとがめようとせず、他の選手との溝は深まるばかり。大先輩の岡田彰布(現阪神監督)が試合前にイチローにサインを頼んだところ「あとにしてくれませんか」と断られ、怒ってゴミ箱を蹴ったという騒ぎもあった。

 チームメートだった野田浩司氏は「球団が完全に特別扱いしていました。僕は阪神にいた時、92年ごろに新庄剛志、亀山努のフィーバーがあったけど、球団はいっさい特別扱いしなかった。ファンが殺到して危険だ、とか言ってもあの当時なら対応はできていたと思う。阪神ができていたんだから。特別視したことでイチロー自身も先輩たちとコミュニケーションしづらくなっていたでしょう」と振り返る。

フリー打撃の順番を待つ岡田彰布(奥)とイチロー(1995年)
フリー打撃の順番を待つ岡田彰布(奥)とイチロー(1995年)

 また「バスの中でもイヤホンで音楽を聴いていて自分の世界に閉じこもっている。周りが話しかけにくいし、それを誰も注意するわけでもない。先輩の僕らも悪かったのかもしれないけど、当時のオリックスは大人の集団だったんで、何をやっても自己責任という雰囲気もあった」。不遜な態度を見かねた〝ボス格〟の佐藤義則が「あいつに言っとけ」と他の選手に促していたが、誰もとがめることはできなかったという。

ファンの声援を受けながら移動するイチロー(2000年)
ファンの声援を受けながら移動するイチロー(2000年)

 野球に関してはもはや誰も理解できないような領域にいた。そんな孤高の存在を陰で支えたのが「2人の父親」だった…。