【熊澤とおる 人生100年時代のセカンドキャリア(11)】西武ライオンズの二軍用具係兼サブマネジャーだった僕と松井稼頭央は“特別な関係”にありました。あえて“特別”なんて言い方をしたのは、僕は球団職員で立場上、一選手の練習に付きっきりになるのはあまりよろしいことではなかったからです。ありがたいことに周囲は見て見ぬふりをしてくれましたが、念には念を入れて、番記者さんたちにも2人の“秘密練習”については「見るのはいいけど、記事にしないでください」とお願いしていたほどでした。

 一軍にも二軍にも遠征があるので毎日ではありませんが、タイミングさえ合えば稼頭央は決まってナイターに向けた試合前練習の前に午前中から室内練習場で打っていました。こだわっていたのはメイン球場ではできなかった、正面から投げてもらった球を打ち返すティー打撃です。

 既にイチローがいたオリックスでは取り入れられていた練習法で、通常は斜め前からボールを上げ、打者は正面に打ち返すのですが、試合でこの方向からボールが来ることはありません。ボールに対してバットを90度の角度で当てるには最適な練習法でした。そもそも斜めから投げてもらうティーは嫌いだったようです。

 僕がボールを上げ、稼頭央は「これが百発百中じゃなくて試合で打てるわけがない」と言って単純な練習を繰り返しました。打った打球がフォームを教えてくれるという考えで、実際にティー打撃でのフィーリングを見ていたら、その日の試合での結果が予想できたほどです。

 もともと才能のかたまりのような男が誰よりも早く球場に来て、誰よりも多くバットを振るのだから、成果が数字に表れるのは当然です。レギュラーに定着した1996年から8年連続で全試合出場を果たし、97年から3年連続盗塁王に、98年のリーグMVP、99年と2002年の最多安打と獲得したタイトルや表彰は数知れず。02年には打率3割3分2厘、36本塁打、33盗塁でスイッチヒッターではプロ野球初のトリプルスリーを達成し、ベストナインは97年から7年連続受賞。ゴールデン・グラブ賞にも4度選ばれるなど、チームやリーグの枠を超えて日本球界を代表する選手の一人へと成長しました。

 活躍の場は“世界”へと広がり、通算4度出場した日米野球で02年に1試合2本塁打を放つなど存在感を示し、03年のアテネ五輪予選ではリードオフマンとしてチームの3戦全勝と本戦出場に大きく貢献しました。03年オフに海外FA権を行使してメッツに移籍し、日本人内野手初のメジャーリーガーとなったのは、稼頭央のポテンシャルからすれば自然な流れだったといえるでしょう。次回からは米国での二人三脚について明かしていこうと思います。