【球界平成裏面史(30) 中日落合監督解任騒動の巻(2)】平成23年(2011年)9月22日、中日を常勝チームに築き上げ、この年も優勝争いを展開(最終的に球団初のリーグ連覇を達成)した落合博満監督の事実上の解任劇は大きな衝撃をもって世間をにぎわせた。

 記者はこの年の8月19日付の紙面で落合監督の解任の可能性についていち早く報じている。この報道は関係者にかなりの衝撃を与えたが、当時は他紙の担当記者ですら「(落合監督の解任)それはないだろう」との反応だった。

 では、なぜ記者が落合監督の解任の可能性があると書けたのか。原稿の中で白井オーナーの側近である本社幹部の証言を掲載している。

「現状での中日の球団経営は非常に厳しい。これにはいろいろと理由がある。球団の営業努力が足りなかったということもあるだろうし、ナゴヤドームの球場自体に魅力がないということもある。ただ、中日の野球がつまらないというのも大きな原因の一つであるのは間違いない。主力メンバーは8年間ほとんど変わらない。勝つときは最少得点。それでもまだ勝てばいいが、いつも勝てるわけじゃない。落合監督がやってきた『勝てばいい』という行きつく先が現状なのは間違いない。そのことは会長(白井文吾オーナー)だってご存じですよ」

 さらに続けて落合監督が今季限りで退く可能性について「十分ある」と断言した。

 実はこの発言、あまりにも衝撃的だったため、当時は人物を特定されないように本社幹部とした。もはや時効だと思うので明かすが、言葉の主は佐藤良平球団代表。中日新聞社で秘書役兼社長室秘書部長を務め、坂井克彦球団社長が3月に就任した際にお願いをして球団代表になってもらった人物だ。

 この年は落合監督が3年契約の最終年。記者は退任の可能性を探り、当初から取材を重ねたが、どこをつついても、時にはため息まじりに「続投でしょう」との声しか聞こえてこなかった。それは佐藤代表もしかり。しかし、このときの取材では発言が180度変化したのだ。

 あとで分かったことだが、当初は“落合降ろし”に積極的ではなかった坂井社長が、このころ解任へ一気にかじを切ったという。そのきっかけは落合監督が発した言葉だった。ファンサービスについて話している中で落合監督が「ファンなんてどうだっていいんだ!」と吐き捨てたという。この言葉を聞き坂井社長は「この人では無理だな」と落合解任に動くことになった。

 坂井社長、佐藤代表、西脇紀人管理担当、井手峻編成担当の4人が中心となり落合監督の解任に向け協議。一番の大仕事は落合監督に絶大な信頼を寄せる白井オーナーを説得することだった。とにかく落合監督を辞めさせることが最重要。後任候補は井手編成担当が懇意にしていて、前回は不本意な形で解任され、「もう一度ユニホームを着させたい」と願っていた高木守道氏に決まった。70歳の高木氏ならば落合政権で憂き目にあっていた中日OB陣を結集できる。何より白井オーナーが首を縦に振りやすいことが一番の理由だった。フロント陣は何度も中日新聞本社を訪問し白井オーナーを説得。9月になってようやく落合監督の解任の承諾を得る。

 中日グループの悲願だった“落合降ろし”に成功した坂井社長。本来であればヒーローと言ってもおかしくなかったが、実際にはそうはならず。“反落合”と言われた人たちですら空気が微妙なものに変化する。そしてそうした流れが、球界を騒がす“敗戦ガッツポーズ事件”につながっていくことになる。