【プロレス蔵出し写真館】先日、〝墓場からの使者〟ジ・アンダーテイカーの2022年の名誉殿堂「WWEホール・オブ・フェーム」入りが発表された。アンダーテイカーは90年11月22日にWWF(現WWE)でデビューし、区切りとなる30周年の昨年11月22日、米フロリダ州オーランドで引退を宣言した。
表彰式が行われるのはレッスル・マニアウィークの4月1日(現地時間)、テキサス州ダラスのアメリカン・エアラインズ・センターだ。
表彰式が行われるダラスの、かつての名物会場だったスポータトリアムで、〝悪徳マネジャー〟若松市政がひとりの怪物レスラーを紹介してくれたのは、今から32年前の89年(平成元年)10月のことだった。
ヒューストン生まれで24歳。203センチ、130キロの体格は、若松と並ぶとかなりデカく見えた(写真)。
「バズ・ソイヤーにレスリングを教えられて86年11月にデビューした。いまに俺が世界一強い男であることを証明する」そう豪語した。
ザ・パニッシャーと名乗るそのレスラーが、まさか後にアンダーテイカーになるとは思いもしなかった。
この時語ってくれた経歴は、あくまでパニッシャーとしてのもの。というのもテキサス・レッド名で84年にデビューしていて、マスター・オブ・ペイン、ミーン・マーク・キャラスなどリングネームを変え、WCWを含め、様ざまな地区を転戦していたことが後に判明した。
90年3月にはパニッシャー・ダイス・モーガン名で新日本プロレスに初来日。橋本真也らと対戦しているが、目立った活躍は残せていない。
ブレークしたのはハルク・ホーガンの主演映画「サバーバン・コマンドー」で、ホーガンを襲う殺し屋役を演じ、映画がクランクアップしてカイン・ジ・アンダーテイカーとしてWWF入りしてから。90年11月19日、ニューヨーク州ロチェスターのダークマッチで強烈なインパクトを残し、22日のデビュー戦を迎えた。
その後、アルティメット・ウォリアーと抗争を展開、91年11月27日、ミシガン州デトロイトでリック・フレアーのアシストを受け、ホーガンを破り世界ヘビー級王座を奪取した。
翌92年3月にはSWSに2度目の来日。「道場檄」の道場主だった若松と再会を果たした。
94年5月に日本初ツアーを行ったWWFのメンバーとしての来日時には、思わぬ副産物を生んだ。8日、大阪城ホールで、全身に写経を入れた〝耳なし芳一〟スタイルの新崎人生と対戦。この時の人生の試合ぶりがWWF副社長J・J・デュランの目に留まり、人生は翌95年白使(ハクシー)のリングネームでWWF入りするという快挙を達成したのだ。
さて、97年10月10日、アンダーテイカーはみちのくプロレスの東京・両国国技館に登場した。会場が暗転してテーマ曲が流れ、リングに上がったアンダーテイカーの目の前に、なぜかうつぶせで倒れている白使の姿。
これは、前年96年4月29日にグレート・ムタに敗れた白使がニューヨークの墓地に埋葬された。その墓が何者かによって掘り返され、遺体は黒装束の忍者たちによって棺に入れられ日本に運ばれた。ふたが開けられてリングに寝かされていたのは白使ならぬ白死の遺体だった。魂が宿り蘇った白死はゆらりと起き上がり試合が始まった。
この時、みちのくがアンダーテイカーらWWF一行を招へいした費用は1200万円ともいわれたが、94年に対戦した白使との再戦は、両国大会では必要なカードだったようだ。
アンダーテイカーを象徴するツームストーンパイルドライバーを決めた相手の両手を胸で組み、白目をむきながらフォールする、Rest In Peace(安らかに眠れ)はファンに大受けだ。
幾度も名前を変え、ファイトスタイルを模索していたレスラーがWWFでトップレスラーになり、しかも殿堂入り。まさにキャラクターがドはまりした好例だろう(敬称略)。