大相撲初場所千秋楽(22日、東京・両国国技館)、大関稀勢の里(30=田子ノ浦)が横綱白鵬(31=宮城野)をすくい投げで撃破。14勝目を挙げて悲願の初優勝の場所を締めくくった。25日の臨時理事会で「第72代横綱稀勢の里」が正式に誕生する。新入幕から73場所目の優勝は史上2位のスロー記録。大関31場所目のVは昭和以降で最も遅い。長く苦しい道のりとなった優勝&綱取りに至るまでの“秘話”を本紙が一挙公開――。 

 初土俵から1日しか休場したことがない頑強な肉体と、チャンスを逃し続けても決してあきらめない忍耐力。その礎は、元横綱隆の里の先代師匠(故人)に徹底的に鍛えられたことで築かれた。夜明け前の午前4時ごろから若い衆の稽古が始まり、すべての稽古が終わるのは正午過ぎ。猛稽古は多い時で優に100番を超えた。時には「理不尽」とも思えるような指導法にも、逃げ出すことなく耐え続けた。

 先代師匠による“鉄拳制裁”は当たり前。関取になってからも、ちゃんこ番やトイレ掃除といった雑用が当たり前のように割り当てられ、特別扱いはなかった。先代の時代を知る関係者は「ちゃんこの給仕を務めていた稀勢の里に、客が『関取にやってもらうのは申し訳ない』と伝えたが、本人は『大切なお客さんなので』と…。客のほうが恐縮していた」。

 取組の翌日に新聞に載った何でもないようなコメントで、師匠から延々と説教を受けたこともある。稀勢の里の口が重くなるのも、ある意味では当然だった。土俵でも試練の連続。新入幕(18歳3か月)は史上2番目、新三役(19歳11か月)は4番目の年少記録で早くから「将来の横綱候補」と目されてきたが、ここからが大変だった。

 当時は朝青龍が横綱として君臨。本場所の土俵でヒザ蹴りを食らわされる屈辱的な仕打ちを受けたこともある。後に白鵬も横綱となり、モンゴル勢が分厚い壁となって立ちはだかった。

 まだ平幕と三役の間を行き来していたころ、稀勢の里が地方の巡業先で飲食店に立ち寄った時のこと。一人の男性ファンが近づき声をかけてきた。普段なら短く「頑張ります」とでも答えるところ。しかし、この時の稀勢の里は違った。

 男性「関取、応援してます。朝青龍みたいな強いモンゴルの横綱をやっつけてくださいよ」

 稀勢の里「任せてください! いつか、自分がやってやりますよ。見ていてください!!」

 マグマのようにたまっていた反骨心が爆発したのか。日ごろは口数が少ない男が、思いの丈を吐き出した。

 昔も今も、稀勢の里は大っぴらに口にすることはないものの“打倒モンゴル帝国”の思いが大きな原動力になっていたことは間違いない。大関昇進後も白鵬、日馬富士(32=伊勢ヶ浜)、鶴竜(31=井筒)の3横綱に何度も行く手を阻まれた。

 しかし、ついに風穴を開けた。昨年11月の九州場所では3横綱を倒し、今場所も千秋楽で最強横綱の白鵬を撃破。モンゴル勢からの「政権交代」を強く印象付け、日本出身力士としては1998年の三代目若乃花以来19年ぶりの横綱昇進を勝ち取った。

 先代師匠は糖尿病に苦しむなど苦労を重ねた末に綱をつかみ「おしん横綱」と呼ばれた。これまでに愛弟子がたどってきた険しい道は、さながら「二代目おしん横綱」といったところか。もちろん、稀勢の里にとってはここが終着点ではない。真の頂点に立つために、新たな挑戦の日々が始まる。

☆きせのさと・ゆたか=本名・萩原寛。1986年7月3日生まれ、茨城・牛久市出身。2002年春場所で鳴戸部屋から初土俵。17歳9か月の新十両(04年夏場所)、18歳3か月の新入幕(同九州場所)はいずれも貴乃花に次ぐ史上2位の若さ。10年九州場所で白鵬の連勝を63で止めた。11年九州場所後に大関昇進。13年12月に部屋の名称変更。優勝1回。殊勲賞5回、敢闘賞3回、技能賞1回。得意は左四つ、寄り、突き、押し。187センチ、175キロ。