体調を崩しているとは聞いていたが、こんなに早く逝ってしまうとは同世代の人間として残念でならない。

 レスラーとしては大成しなかったが、大卒(日大)初の学生横綱・輪島は光り輝いていた。黄金のまわしを締め、左下手投げを武器に、北の湖(後の日本相撲協会・北の湖理事長=故人)とともに輪湖(りんこ)時代を築いたが、型破りな言動で物議を醸したことも何度かあった。「沈黙が金」と言われる角界にあって思いついたことを素直に口にし、関取衆から不評を買ったこともある。稽古一つをとっても、番数をこなすわけでもない。部屋の近所をランニングし、喫茶店ではコーヒーに新聞をめくって部屋に帰り最後に軽く胸を出す、なんてこともしばしばだった。

「番数をこなせばいいってもんじゃない、本場所で勝てばいい」と平然としたものだった。それで14回も優勝し、横綱の責任を果たしたのだから、“天才”というしかない力士だった。

 引退後は、部屋(花籠)を継いだ。私生活でゴタゴタが続いて角界を去ったが、人の良さにつけこまれた面もある。こればかりは「少しは社会勉強しろよ」と言いたくなったこともある。「オイ、東スポ! 頼まれてくれ!」と無理な注文をされたこともあるが、本人はそれが当然だと思っていたから、始末が悪い。無邪気で愛すべき男だった。

 最後に会ったのは14、15年前だったろうか。私の自宅近くの焼き鳥屋でバッタリ顔を合わせた。友人とのゴルフ帰りとのことだったが、店主とは知り合いなのに、行列に並んで席が空くのを待っていた。「お願いして席を用意してもらえばいいのに」と言うと「待っている人がいるのに、身勝手はできないよ」と。まさかあの輪島から、そんな言葉が返ってくるとは…。

 幼稚園に入園したばかりの子供のことを目を細めて語り、我が家の2人の子供の頭をなで「両親を大事にしなよ」と。「子供のためにも健康で長生きしような」と約束して別れたが、70歳を過ぎたばかりで、サヨナラをするなんて…。

 無念、残念、合掌。(本紙OB元大相撲担当・牟田基氏)