日本プロレス界の「ケンカ最強男」が天に召された。レジェンドレスラーのケンドー・ナガサキ(本名・桜田一男)さんが12日に死去したことが大日本プロレスから発表され、マット界は深い悲しみに包まれた。71歳だった。北海道・網走刑務所で育ち、海外で名声を獲得した後に日本のプロレス界で活躍。数々の団体を渡り歩き、1995年3月の旗揚げから大日本を支えた功労者は、知る人ぞ知る数々の武勇伝を持つ男だった――。

 13日の大日本プロレス後楽園ホール大会ではナガサキさんの追悼セレモニーが行われ、旗揚げ戦から苦楽をともにしたグレート小鹿会長(77)と登坂栄児社長(48)が並び、一番弟子だった谷口裕一(41)が遺影を持った。大日本によると、ナガサキさんは12日に千葉・市原市内の自宅で亡くなっているところを知人に発見されたという。

 死因は不明。2016年に心臓の手術を受けるも、数日前までは元気な姿を見せていたという。近親者がいないため葬儀日程などは未定で、小鹿会長は「彼がおらんかったら大日本の存在はなかった。感謝しかない。親族の方がいらっしゃいましたら、どうか大日本プロレスまでご連絡ください」と涙をぬぐった。

「ケンカ最強」と言われたナガサキさんには、多くの逸話が残る。父親は網走刑務所の職員で、幼少時は刑務所内で育った。谷口は「流氷に乗ってトドと木刀でケンカして、勝ったら食用にしてたらしいです」と明かす。「戦後間もない網走で弱肉強食の世界を生きてきたから、強さは熊とか象とかと同じで、人類を超えたレベルなんです」

 大相撲からプロレスに転向。米国に渡って悪役レスラーとして一時代を築いた。1980年代中盤には新日本プロレスにも参戦。この時期から「最強説」は根強かった。「大日本が他団体になめられず、新日本にも殴り込めたのも、ナガサキさんがいたからです。小鹿と並んで本当に怖い人が中心にいるから、絶対になめられなかった」と登坂社長は語る。

 96年9月16日には新日名古屋大会に小鹿会長、ナガサキさんら大日本軍団8人が乱入。新日プロ勢も殺気立ち、通路では元小結の安田忠夫が仁王立ちするも、小鹿会長が「どけコラ。殺すぞ」と叫び、背後でナガサキさんが眼光鋭くするや、自然と道が開いた。当時の大日本メンバーだったTAJIRI(49)は「リングに上がると、新日本の選手は会長と桜田さんを中央分離帯のように避けて僕らに襲い掛かってくるんです」と証言する。ナガサキさんは「俺は新日本の道場でやってきたことをお前らに教えた。だから何もひるむことはないよ」と堂々としていたという。

 団体が格闘技「バーリトゥード」路線に転じるや、ナガサキさんは95年9月26日に駒沢で、ジーン・フレジャー(米国)との一戦に出撃。試合前にはブラジルに約1か月間の柔術修行に向かうも、何も対策を練らずにビーチを走っただけで臨んだ。試合はわずか36秒でKO負け。「どの程度の力なのか、一発食らってから起き上がり、プロレスラーらしく反撃しようとしてたんじゃないか。突発的なカウンターで決まったけど、それだけ自信があった」とTAJIRIは回想する。

 巡業中にもエピソードがある。約30人の暴走族に宣伝カーが取り囲まれるや、たった一人で750㏄の大型バイクを1台ずつ破壊。最後尾までゆっくり片付けていく背中は、まるで映画「ターミネーター」のようだったという。また高速道路で軽自動車が炎上しているのを発見し、移動バスを降りてダッシュで救出へ。だが炎に包まれた女性がナガサキさんの風貌におびえて中からロックしたため、ドアを壊して救出したこともあった。

 一方でいじめやしごきを徹底的に嫌った。練習は厳しかったが、若い選手やスタッフにまで細かく気を使った。

 リングを下りれば「身近な人間には威圧感を与えない人だった」と関係者は声を揃える。谷口が「昨年12月、大日本の選手と4人でファミレスに行ったのが最後です。『お前にごちそうしてもらうとはなあ』と笑ってました」としんみり語れば、小鹿会長は「道場はナガサキに任せられたからこそ、オイラは営業に専念できた。ゆっくり休んでほしい…」と天を仰いだ。

 名レスラーの偉業は、永遠にファンの記憶に刻まれる。

【プロフィル】1948年9月26日、北海道・網走市出身。64年に大相撲の立浪部屋で初土俵。廃業後の71年6月27日に日本プロレスでデビューした。日プロ崩壊後は全日本プロレスに移籍。76年に渡米し、日本人ヒールとして人気を集めた。80年代にはミスター・ポーゴ(故人)とのコンビで新日本プロレスにも参戦。SWS、NOWを経て、WARでは消火器を噴射する“消火鬼”と呼ばれた。95年3月の大日本旗揚げに参加後は98年からフリーとなり、神奈川・小田原市内で飲食店を経営。188センチ、120キロ。得意技はパイルドライバー。