【越智正典 ネット裏】なかなかむずかしい問題ですが、新型コロナウイルスが収まったら、あのチームを応援に行きたい、あの選手を見に行きたい…と思っている読者の皆様は多いと思います。私はそうなったらヤクルトのちいさな左腕、167センチの石川雅規投手(登板476試合、投球回2814、奪三振1626、171勝)の頑張る姿を見に行きたいと思っています。彼はことし40歳。

 私がオヤと石川雅規投手に注目し、微笑んだのは1997年(平成9年)、夏の第79回甲子園大会が近づいたときに高校野球誌で「好きな食べ物はナニ?」というアンケートの答えを読んだときだった。

 記事は大会の入場式の入場行進のように北から始まっていた。北海道の選手の答えは「メロン」「プリン」「チューインガム」。昔ならライスカレーが圧倒的に多い筈だが南北北海道の32選手のなかで「ライスカレー」と答えていた選手は一人だけだった。戦争が終わったあとの飢餓時代を思うとびっくりした。豊かな時代になったのだ。

 記事は海峡を渡って青森県へ。青森の球児たちの答えは「鳥の水炊き」「メロン」「桃」。そして「ビックリマンチョコ」。次に秋田県。「ホカホカごはん」が目に飛び込んで来た。そう答えていたのが秋田商業の投手石川雅規くんだったのだ。

 秋田商業は大会4日目に浜田高とぶつかり、石川くんは左腕和田毅(早大、ダイエー・ソフトバンク、大リーグ、ソフトバンク)と投げ合い、4対3で勝った。

 98年、石川くんは秋田商業監督小野平(秋田商業、青山学院大学)のすすめで、青山学院大学に進んだ。小野は「スターを作らず、落伍者を出さない」を貫いて球児たちを育てていた。

 青山学院大学は石川が入学した98年春は最下位。1・2部入れ替え戦でやっと勝って踏み止まったが秋は5位。コーチ善波厚司(元監督)が石川に期待した。どんなことにも純真に立ち向かっていたからだ。

 善波は青山学院大の強力時代を拓いた殊勲者である。対戦全校を偵察。石川と走った。猛烈な走り込み。石川のストレートが力強くなった。善波伝授のスクリューボールが鋭い。

 2年生になった99年春第7週、対東洋大戦では2試合連続完封。青山に6季ぶりに優勝をもたらした。登板11試合、6勝1敗。先発8試合は全完投。防御率1・71。最高殊勲選手、最優秀投手。全日本大学選手権では全4試合に投げて3勝。青山は優勝。秋も石川はチームを優勝に。天王山の日大戦では延長13回、182球を投げ抜いた。

 ヤクルトのスカウト宮本賢治(東洋大姫路、亜大、東都35勝)が石川の獲得を球団内で推進した。2001年秋、石川は自由獲得枠で入団。新人王。03年7月13日、彼は秋田での横浜戦に登板して勝った。帰京した石川に「ホカホカごはんはおいしかった?」と聞くと「秋田のお米は日本一です」。わかってますね。県知事の会見のようだった。たのしかった…。 =敬称略=